なんだか悩んでいるような口ぶりだ。どうやら義母との問題が発生しているようである。
嫁さんと彼は、結婚して1年ほどして、牛久保に家を建てた。土地は義父と義母の名義である。
そこに家を建てることにした。彼が60・嫁が30パーセント、残りを義母が20パーセント
の出資金で建てた。狭い家だったのもあり、子供の成長で学校に近くに家を借りた。
義父は10年ほど前に亡くなったから、土地は嫁さん名義にしてもらい義母がそこに住むことになった。
その家の名義を後輩の名義から、自分の名義に変えてと言い出したようである。
「岳父が生きていたころから、義母のやり方とか行動に疑問があってね。自己中のかたまりの
ような人だったから俺、時々注意したんだよ。岳父は大人しい性格の人で、目に余っても言えず
スイミングスクール事業を始めて、中にカフェをやったりしていい男がいたりすると一緒にゴルフ
行ったり、旅行したりしてた。もういい年だったから、いう気もしなかったのかもしれないね。
90半ばになるんだよ。どうやら俺のことが鼻から嫌なんだと思う。だってさもうすぐ逝くんだよ。
嫁はなんでそういうこというのかと、問い詰めたらしいんだけど返事なしらしい。もう嫌だと相手に
しなくなったらしい。どう思う」との問いかけである。90半ばにもなるお方であるから、
気の向くままにしたいのだろう。後輩が自覚しているように、何かが引き金で
嫌われているのだろうと考えざるを得ない。岳父も手を焼いていた経緯も感じられた。
「贈与に合意したんかい?」と聞くと、「嫁がノイローゼになりそうで、仕方なくした」との返事。
元はといえば他人の間である。何が常識かと問いかけもするが、強欲な老婆にかける言葉も失う。
らいおん丸
]]>川田さんは、大工だ。「自分の師匠だった人の家があるが、跡取りが居ないのでどうか?」と
言ってくれたので、見に行った。緩やかな傾斜地で北側に山を、南に開けたところである。
古民家で、渾身の思いで作ったような家である。細工も手がかかっていた。
右半分に新しくダイニングキッチン・トイレ・風呂場などが作られていた。
屋敷の下に畑があって、丈の高い草だらけだ。ただ入り口の道が難点で、砂利なり、舗装しなければ
車では上がれない。4輪駆動の軽トラなら、楽に上がれるかもしれない。
今の住処から、10キロはあるので難しいかもと伝えた。嫁に行った娘さんに相談してみると
いうことであった。「もう一つあるよ」と川田さんが言う。そこも見に行くことになった。
やはり立派な古民家で、持ち主が亡くなったと聞いた。風呂場で亡くなったらしい。
独り暮らしで、午前中は草刈りをしていたという。虚血性心疾患にでもなったのかもしれないと
考えた。さすがにそこを終の棲家にするのはためらわれたので、家に入ることもなく戻った。
散歩しながら、古そうな茅葺の屋根を覆ったトタンや門構えの家を見ることが好きだ。
善さんの家は、山の中腹にある。どうしてるかなと思いながら、坂道に入る道を見ると
その脇にある屋敷の具合が普段と違う気がして、善さんに電話をした。「あそこねこの間
売ったんだよ、跡取りがいないからね。施設に入ることになったから、縁者の人がせわして
都内の人が買ったんだよ。時々来てるよ。どうしたの?」と彼。「きれいに片付けしてあって
気になったから」「そうか、跡取りが居なくなっていく家がこれからも増えるよ、俺も腰が
痛くなって動けない。遊びにおいでよ」と言って電話が切れた。善さんに会いたくなった。
ライオン 丸
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新潟にも及んでいるようで、心配になり石井先生に携帯からの電話を試みたが不通。
同級生の山形につながらないことを連絡すると「そうなんだよ、通信が混乱してて通じない」
「最近連絡することもないから、元気かどうかもわからない」と僕が言うと「この間、浅草で集まった
じゃん。あの時先生に電話しようということになってさ、かけたんだよ。みんなでかわるがわる話を
して、元気そうだったから大丈夫だよ。落ち着いたら電話してみるよ」
浅草には行けなかった。酒が飲めないのもあるが、東京に出ていくのを億劫に思った。
二日目、羽田空港で日本航空機と海上保安庁の航空機が衝突、炎上する様子をテレビが伝えていた。
これはただ事ではないと思う。公表された交信記録は、2日午後5時43分2秒から4分間のあいだ
日本航空機にC滑走路への着陸を許可している。ともにこれを復唱しているという。
一方45分11秒に保安機に滑走路停止位置まで地上走行してくださいと指示。つまり保安機の機長
は、停止位置まで行くことにはなったことは理解したようだ。そのあとの話がないまま滑走路に
入って、日本航空機とぶつかったことになる。あの炎上する機体の乗組員・乗客は無事機外へ。
保安機は機長が助かったようだが、4人が亡くなった。しかし乗客全員が助かったのは奇跡だろう。
いま昼間の穏やかな時間にこれを書いているが、一年の計は元旦にありを復唱するに暗たんたる気分を
ぬぐえない。覚悟しなさいと示された気がするのである。
ライオン 丸
]]>ちょうど訪問先の葵の園にいた時、岩渕さんから電話があり「今日行きたいから予約をお願いします」と。
彼は千倉から自転車で、館山まで来る。つむぎの、最初からの新聞広告をためている。
何故か気になって切り抜いたと、聞いた。募金もありがたいことに、惜しまずしてくれている。
朝晩寒いくらいになったから、自転車も夏の盛りに往来するほどではないかもしれない。
また毛利さんご夫婦で、来てもらった。「このところリテラシーのことが言われていますね」と
彼にいうと「リテラシーって何」という返事。彼が聞き返すのは珍しいことだ、たいがいは聞かれる。
すぐに奥さんがスマホで調べた。「むつかしい、問題だなー」と彼がいい、しばらく議論になった。
彼もつむぎへの募金をしてくれた一人である。奥様は、大分の生まれで歯科医の娘だ。
三芳の診療所に来てもらった時「歯科医の親を持ち、なんで虫歯を作るかな・・」と失礼なことを
言ったことを後悔している。嫁にも虫歯があったし、岳父はかなりを抜いたりしている。
予防をしなかった時代の産物である。僕は妹のブラッシングと虫歯のなさには、脱帽する。
葵の園に、衛生士を連れていった。彼女によって医院に、変化していることがあるらしい。
仕事場は就く人によって変化するから、その大きさに周囲が気が付く。面白いものである。
ケアマネや、看護師に指示書を書いてもらっている時に、岩渕さんから電話が入った。
岩渕さんを筆頭に、つむぎも多くの方々に支えられている。そのレベルから考えると、リテラシーなど
問題ではないのかもしれないと思う。煮詰めれば、においも味も失うことになりかねない。
皆で一緒にわいわいがやがややりながらつむぎの8年は、においも味も失われてはいない。
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実は7月の終わりのころ、彼と食事をする機会があった。「A施設の訪問診療をしてくれないか」という打診である。
急だが、受けることにした。「どうせ娘さんが歯科の診療をしてくれているんだから、暇でしょ」とは
彼の言いぐさである。もう一つは介護の仕事をしている方々の、手助けになればと思った。
9月から火曜日の午前中に行くことになり、とりあえず初回3人を診た。
そこに診察のみをしてほしい人が加わる。これは施設側からの選択だ。
4階ある各フロアから3〜4人選ばれて、12〜3人になる。この方々は診察のみだからカルテ記載にも、
歯科医院の収入にもならない。カルテ記載にならない記録をほしいということだ。
これは施設が国に申請すれば、お金がもらえるようなことを看護師に聞いた。口腔衛生管理体制加算かもしれない。
「カルテにならないものを書くのは嫌だ」とも言えず、書き渡すことにした。
今後どうすればいいのかは、その時考えればいいと思う。
Y先生が、仕事をしないで旅をして暮らしたいと思っていることを聞いた。
昨年あたりから考えていたことらしい。
マジックはかなりレベルの高いものに進化していた。皆「えー」とか「なんでー」とかを
連発していた。旅に飽いたらまたマジックショーを依頼しようと思っている。
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先生との出会いは、千倉の火葬場近くのヘルパーさん自宅。バーベキューをする案内だったかと思う。
はっきりしないがご主人がなくなったのを看取ったのが、先生なのかもしれない。彼はかなりいい気分
になっていたから、紹介されても気のない返事をしたかもしれない。
亡くなったご主人は、菊池の人であった。定かでないが剣道七段で、師範の免許もあった。
母の実家があった菊池の話で盛り上がった、死ぬ前に出会いたい一人だと思った。
次に会うようになったのが、介護審査会である。開業して間もなく始まったから、20年くらいになる。
まっすぐな性格で、熱い志を持ったひとだなという印象を持った。
5年ほど前になるだろうか。台風でつむぎの屋根が飛ばされた2前の年、嫁がうるさく言うので
松永医院に行き、血液検査をしてもらった。この時PSAが10の値であった。
これがどんなもんだかわかっていない僕は、自動車事故で死にかかっている経験もあり
ズルズルと先延ばしにして、次の年に嫁の助言で再び松永医院に向かう。
PSAが11になっていたのもあり、先生から県立がんセンターに行くように、指令がでた。
これは福島の友人の父親の前立腺がんの前例もあり、素直に聞いて松ヶ丘まで向かった。
いま岡山歯科の患者で洲崎さんが、PSA100であるのを知っている。抗がん剤を打ちながら畑仕事をして
いる。抗がん剤のヒットがどれだけ続くのかわからないが、骨に転移しているのは明らか。
どういう最期を迎えるのかはわからない。松永先生の講座も、死との対面で最期の看取りである。
いまうまく死んでいくためのプログラムを、とみちゃんと考えている。
らいおん丸
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僕の部屋は土足なので、犬を飼うには条件がいいのかもしれない。富士丸と命名。
今まで葉山に住んでいたころ、隣の浜田さんがシェパードを飼っていた。鹿児島生まれの頑固な
爺さんであったが、犬の里親がまた生んだから飼いなさいと、言われるがまま飼うことになった。
名前は、嫁の希望からファビと付けた。幸いスズキのジムニーを持っていたので、荷台に乗せた。
乗せる度に車酔いをして戻した。慣れてくると、タイヤの床より高くなった部分にお尻をのせた。
福島に連れていき極寒の中で、家に入れなかったのを今も後悔している。やはり飼い方を知らない
私であった。しっぽの根元に腫瘍ができて、10年くらいの寿命を生きた。
すでに神奈川に戻ってから、あたたかくはなったが遅い。動作が鈍くなったのは年を取ったから
くらいにしか考えなかったと思う。ファビの小屋を広く改装した。当時安房郡三芳村に診療所
があり、通わせてもらっていた。散歩できないのが、かわいそうである。歩くのがやっとになって
ので共に三芳村に通った。嫁の弟が、お風呂に入れたりしてくれた。
富士丸も大きくなるにつれ、歩く距離も長くなってきたので金毘羅山に行くことにした。
朝が早い。4時半から5時の間には起きだすので、登山道まで車で行きそこから引綱を解く。
僕との距離を2〜30m保ちながら遊んだりして過ごす。これまでウリ坊に3回程出合った。
追いかけていったが、親が一度藪から出てきたときは、さすがに驚いた。
二度目は、木登りをしているタヌキ。ぶら下が。ったまま固まっていた
ウシガエルが2回程、かなり高いところまで来ていたので山越えしているのかとこれも驚いた。
また寝そびれたか、3匹のフクロウにも出会った。共に正林寺に向かって木立の中を下降した。
金毘羅山の山頂まで行き戻ると、5千歩ほどになる。毎朝習慣になるのも楽しい。
鳥の声以外に、風の強い日には倒木と立木のこすれ合う声を聴く。乾いた響きや、獣の鳴き声に
近いものも聞く。いま梅雨時でもあるが、雨に降られていない。
鳥の声や朝の風を受けながらあるく。猫とも会うが、今朝はタヌキの親子と出会った。 らいおん丸
]]>のが母親のそばにじゃれているものである。可愛いねとメールして、ミイさんに見せると「すみが和犬を欲しがっている」
とのことである。聞けばネットで調べて四国あたりのブリーダーさんに連絡して犬を欲しい旨の交信をしていたが、
往来もあり断念しかかったとこらしい。ミイさんはこれ幸い、渡りに船とばかりに鍋さんと連絡を取り見に行ったようだ。
娘のすみちゃんは、幼いころから知っている。二人して鍋さんのところに通い、具体的な引き取り予防接種の時期などを決め
たようだ。行先は4匹のうちオスが2匹で、すみちゃんのところと僕のところに。もう2匹はすでに行先が決まっていた。
4/26、富士丸君の明石への登場となった。体重3.26キロとのメールが来た。この日から僕の部屋で、ともに暮らすことに。
食事は45gとすみちゃんは決めているらしく、母親にきつく申し渡している。計っているかどうかは、わからない。
5/12、2時からパピー教室だから「ビスケと、富士丸と一緒に連れていくことになっているから」とセッティングされて
行くことになった。犬の飼い方を知らぬままシェーパード犬を飼っていた時期があり、後悔していたのもあり参加。
いかに子犬の時期から教育を施すことに努力するかを行使するもので、ミイさんは「もっと以前から知っていれば良かった」
と連発。たしかに子育てと共通しているところがあって、面白い教室でした。
忙しいばかりのなか、手間のかかる事態になったことに「猫も3匹いるのに」と言われながらでもよかったと思う。
縄文柴犬がどのような歴史をたどって今に至っているのかわからないが、近くのグランドでビスケと富士丸の兄弟が走り回る
様子を見るにあたたかいものを感じる。この原稿を打っているときも違う音がはいると、顔を起こしてみている。
昨日は1日小出さんの畑で芋の養生とひまわりの種を撒いていた間、車のそばにいたがしめはグランドへ。
今日は生憎の雨である。傘を差しながら、トイレに出た。
]]>菅原健介氏(43歳)のことが目を引いた。
神奈川県藤沢市の団地の中に介護事務所を開き、そこを起点ににして地域とつながり
一人一人をほどほどの幸せを実現し、人と人をつなげて暮らしていく住民活動をしている。
2020年にアジア太平洋地域高齢者ケア・イノベーション・アワードで
最優秀賞を受けた方である。
この8年前に母親のもとで小規模多機能型居宅介護を開いている。
以前に考えて調べたことがあるが、資金もないしハードルが高いのもありためらった。
みんながみんなを支えあう状況からいえば、シェアハウが最も近い感覚だったかもしれない。
雲南省の土楼は、何度も夢見た集団住宅である。
旧友がコロナの影響もあり、男の子3人も抱え下の2人が学生という状態もあり
生活費にも困っている有様。2・4月と泣きつかれ生活費用を、工面した。
今朝もメールがありどう生きていったらいいかわからない、という絶望的なメール。
彼の住んでいる土地はもともと僕の土地で、彼が窯をやりたいところから譲ったものだ。
鬱症状も出ていて、医者に掛かり始めた。菅原さんは「安心できる場所」と「信頼できる人」
がいれば、人は絶望しないし楽しみも見出していける、その二つではないかという。
希望を失ってほしくないと思っている。
らいおん 丸
]]>突撃金男くんならぬ、突撃インタビューを行いました。
つむぎボランティアスタッフの・・つぶやきです。
「ランチ作りのスタッフは厨房に入っているので、フロアの様子を
なかなか見ることができませんが、作ったご飯を喜んで食べてもらえるのがうれしい」
「一人でいるより集まれる場所があって、みんなと会えることができていいと思う」
「スタッフになることで、自分の生活リズムを作ることができる」
「自分の作った料理をブログに出していたら、つむぎのスタッフにおねがいされて
食事を作るようになりました」
「わたしは料理を作れないけど、もやし和え物なら作れるの、もやしの味付けは
その日のランチ料理に合わせてさっぱり味にしたり、工夫している」
「私は天ぷらしか作ることができないのよ〜」・・(絶品の味です)
できること、できないこと力を合わせてチームワークの豊かさに結ばれています。
つむぎのランチはボランティアの皆さんに支えられています。ゆったり・まったり
ほっこりの時間もある皆さんの、話を伺いました。ありがとうございました。
引き続き忌憚のない皆様の、投稿をお待ちしております。 塩谷 とみ子
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突撃金男くんならぬ、突撃インタビューを行いました。
つむぎボランティアスタッフの・・つぶやきです。
「ランチ作りのスタッフは厨房に入っているので、フロアの様子を
なかなか見ることができませんが、作ったご飯を喜んで食べてもらえるのがうれしい」
「一人でいるより集まれる場所があって、みんなと会えることができていいと思う」
「スタッフになることで、自分の生活リズムを作ることができる」
「自分の作った料理をブログに出していたら、つむぎのスタッフにおねがいされて
食事を作るようになりました」
「わたしは料理を作れないけど、もやし和え物なら作れるの、もやしの味付けは
その日のランチ料理に合わせてさっぱり味にしたり、工夫している」
「私は天ぷらしか作ることができないのよ〜」・・(絶品の味です)
できること、できないこと力を合わせてチームワークの豊かさに結ばれています。
つむぎのランチはボランティアの皆さんに支えられています。ゆったり・まったり
ほっこりの時間もある皆さんの、話を伺いました。ありがとうございました。
引き続き忌憚のない皆様の、投稿をお待ちしております。 塩谷 とみ子
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「どぎゃんしたつね?」と突然の電話に驚いたようだった。
管理している叔母の土地が、欲しいという話があって、近くに住んでいるミッちゃんに土地の相場を
聞こうと電話したことを伝えた。「そぎゃんとは、ウチにはわからんよ」と彼女。
元気にしているのかを尋ねると、「去年、主人が死んだっよ」という返事に驚いた。彼女の旦那を僕は知らない。
また賀状のやり取りをしていたわけでもなかったので、その訃報を知る由もなかったが・・
正信は、同級生である。成績もよかったが、野球部員でショートの席を他の部員に譲ることもなかった。
熊本大学の医学部に入るための受験勉強をしていた時期に、突然死したと記憶している。
僕にしてみれば、近寄りがたいスターである。この正信の兄が、ミッちゃんの旦那になった。
それもかなり後に知った。彼女の旦那に会ったことはないが、正信が重なる。
「何かあったの?」と僕が聞くと、「お酒すきじゃったけんね、肝臓がやられとったんよ」と彼女。
「じゃ肝硬変とかで亡くなったっね」
「もう足元がふらっいとったんよ、トイレに立った時につまずいたっよ。肋骨ば何本か折ったけんね
直ぐ入院したとよ。そるがようなったけんね、次の日には、退院ていうときに死んだっよ。
じゃけん、話もなにもせんし、あれよあれよという間に葬式、いままでおんなはったつが、居らんごつ
なっとは寂しかよ」と彼女。
「そぎゃんじゃろね」と僕も言葉が、続かない。帰省したら会うことを約束して、電話を置いた。
らいおん 丸
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当初からの磯辺さん、青ちゃん、ノリちゃん、姉ちゃんには、いまだに厨房をやってもらっている。
私にとって注文も多い煙たいタミちゃんだったが、つむぎのフロアーはピカ一の舞台だったと思う。
「私の生きがい」と言いながら、客と状況などをしっかり把握していた人である。
彼女は末期の膵臓がんになり、伊藤先生の花の谷クリニックに世話になった。
彼女のいなくなったフロアーは、さみしくなった。
セッちゃんが、それを引き継いでくれた。厨房で必要な情報を、即座に伝えたと聞いた。
セッちゃんも「これお願い」という前に、気が付いて行動していたとか聞いた。
ボランティアというのに、つむぎの厨房は一つの有機体のように形成されていったと考える。
朝9時頃から片付けの終わる3時くらいまで、会話の途切れることがない。二階まで響く。
アケミちゃんは、鍛えられた気持ちに柔軟性をもっていたように思う。どんな器にも入れた。
彼女は、これに抵抗なかったのだろうか。彼女も、ガンが発見され亡くなった。
セッちゃんが、青葉の森に引っ越しすることになった。体調もあり、つむぎに来れなくなっていた。
厨房のみんなで送別会をするというので、姉に気持ちを伝えてもらうことにして僕は遠慮した。
今にして思えば七年間、人の居場所を作りながら成長していったと思う。法人化も試みた。
月曜日のランチだけにしょうかとも考えたが、どうもこの歩みをやめるわけには・・
つむぎのご飯は、人気である。湊クリニックも、お弁当の注文が続く。
亀田ファミリークリニックも、月曜日・金曜日と注文が増えた。厨房の婦長さんが心配である。
岡山 貢一
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皆さまの声を届けたいと思います。
たくさんの感謝の言葉をいただき、ありがとうございました。
〇 つむぎの雰囲気がよく、やさしく声をかけてもらった。
〇 ランチの料理がおいしく、品数もおおく、安く食べられる。
〇 つむぎに来ると交流をもて、人と触れ合うことができる。
〇 一人暮らしの高齢者は、このような場があることで喜ぶので継続してほしい。
〇 イベントがあるときは、みんなが交通整理したり囲碁や、マージャンなどに参加して楽しそう。
〇 年寄もたくさん集まれば、大きな力になる。
などでした。
投稿された言葉・意見をスタッフの方々に伝えたところ、感謝してくれた皆様に感謝
そしてつむぎに協力して食事を作ってくれるボランティアの皆さんに感謝
ボランティアの皆さんはランチを喜んで食べていただける皆様に感謝でした。
支え、支えられこだまのように感謝の気持ちが、共鳴しあっていました。Iさん、Tさん、Uさん
ありがとうございました。引き続き皆さんの忌憚のない投稿、よろしくお願いいたします。
2023・1月27日 塩谷 とみ子
]]>萩で無線課長を、4年勤めた。長州藩由来の史跡がたくさんあり、進取の気性を感じ取ることができた。
萩を離れるときは、娘たちの大学受験、長男の就職と重なったが・・館山(関東デッカ局)へ。
主任技術官3年勤めて伊豆半島へ。当時大島は地震頻発で、小さい事務所ではあったが大噴火の対応は出来たと思う。
大島付近は、内地海上保安部の通信網の中継地である。噴火の時は石原慎太郎大臣と同席の機会もあり
記憶にある。また17年連れ添ったビーグル犬が死んだ。富士の見える岬に、お墓を作った。
平成元年横須賀に勤務。2年後館山に戻り、ここで私の官庁奉職が終わる。妻の苦労を身に染みて感じる。
退職から31年、老化が進むこれからが正念場。妻は要介護4で特別養護老人ホームに世話になって6年。
福祉制度と人の情けに支えられて、感謝・感謝のみ。
私も高齢で不安と寂しさの中『つむぎの仲間』等々で、憩いを得ている。ギターとハーモニカを習っている。
歌やギターの仲間もできて、いつの日か人前で弾くのが目標だ。
ハーモニカで妻を送葬できたら、「わが人生悔いなし」だ。振り返っていつも綱渡りの有様だったが、
人の善意と、親切が支えに。妻の介護が大きな日常となったが、胸にしまって持っていこうと考える。
たどれば、47歳で逝ってしまった長女、認知症を25年患いながらホームにいる妻、自ら去っていった80歳の
彼女、思い出しては恋しくて切ない。この人たちを思わせる、わたしの好きな歌。
白い月が泣いてた ふるさとの丘の木立に さよならといったら
涙の瞳でじっと 見つめててた 悲しかったあの時の あの白い月だよ
九重 小滝 恒夫
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